崖下の家で
濱田 優

赤坂は坂道の多い街である。
かなり急な坂も階段もある。ぼくが幼いころに住んでいた丹後町の借家は、坂の中ほどの棚地に建てられていた家々の中の一軒だった。一段下の敷地には大家さんの大きな家があり、上段の狭い平地にはお稲荷さんが祀られていた。
 
周りは大きなお屋敷で囲まれ、緑深い台地を成している。近所への気配りのためか、子どもたちを広い庭に入れてくれるお屋敷も何軒かあり、都会には珍しく、夏は蜻蛉(とんぼ)や蝉取り、秋は団栗(どんぐり)や椎(しい)の実拾いの場所に事欠くことはなかった。今は大きなビルが我が物顔で占拠し、昔の面影はない。表示も変更されて今は赤坂4丁目、趣のある丹後町という名は消えてしまった。

ぼくが幼稚園児だったから、戦時色が強まった昭和19年の春先のことである。このころの記憶のあらかたは小さな断片として残っているだけだが、一つだけまとまった塊として覚えている印象深い出来事がある。

家の二階から崖に面して張り出した物干し台があった。崖と物干しの間隔は狭く、崖の上に叢生(そうせい)している潅木の枝が、手を伸ばせば届きそうなところまで垂れていた。

若葉は未だなのに無数の鮮やかな黄色い花をつけていたから、多分レンギョウだったろう。「手摺りから体を乗り出しては絶対いけませんよ」と、日ごろ母にくどいほど念を押されていたので、お利口さんのぼくはその枝を手折(たお)りたい気持を懸命に抑えていた。

その日、父と二人の姉は会社と学校、母は隣組の人たちと坂の上の借り畑に出かけていた。配給も滞りがちになってきたそのころ、食糧不足を補うために母は慣れぬ農作業をはじめたのだ。おやつを置いておくから、幼稚園から帰ったら、一人でおとなしくお留守番をするように、と朝いわれた。

チャンス到来だ。おやつを食べるのもそこそこに、物干しに出てその花木の枝をつかもうと精一杯手を伸ばしてみた。が、もう少しのところで届かない。辺りを見わたしたけれど、枝をもぎ取るのに適当な道具は見つからなかった。諦めるか。いや、ちょっとだけ乗り出すだけで届くのに……。

結局、黄花の誘惑に負け、つま先立ちをして手摺りの上から体を伸ばして枝をつかまえた。なんだ簡単だ、と思ったのは束の間のこと、生木の枝は粘り強くいくら引いても揺すっても折れない。はじめは恐る恐るだったのに、いつの間にか夢中になって大きく乗り出していたらしい。そしてつかんだ枝を、えいっ! と強く引っ張ると、ぼくの体の方が引き摺られ、物干しから転げ落ちた。

軒下と崖下の間はコンクリート打ち。そこに幼児が4メートルくらいの高さを落ちたのだから、下手をすれば命にかかわる。そうでなくても打撲や骨折の大怪我はまず免れない。落ちた瞬間、あまりのショックに茫然として声も出ず、そのままの姿勢でただじっとしていた。

痛みは徐々にやってきた。擦り傷から血も出ている。だが、どうやら大怪我はしていないようだ。後から聞いた大人の講釈によると、枝を握ったまま落ちる途中、崖にぶつかり、もんどりを打ったのが幸いしらしい。日陰の崖は厚く苔むして弾力性があったのだ。

隣の小母さんが激しい物音を聞いて窓を開け、声も立てずにうずくまっているぼくを見つけると、慌てて母を呼びに行った。やがて、坂上から忙(せわ)しげな人声と足音が聞こえてきた。近所の小母さんたちに伴われて母が戻ってきたのだ。

母は息急き切って駆けつけ、「ゆたか!」と叫ぶや、ぼくを抱き起こす。そして、傷や身体の具合を調べて、たいした怪我はしていないと分かると、態度を一変させ、思い切りぼくの頬を平手打ちした。思ってもみなかった母の仕打ちである。

しばらく間をおいて、ぼくは堰(せき)を切ったように大泣きしながら、母の胸にむしゃぶりついた。今度は母も泣きながらぼくをひしと抱きしめる。

母は、ぼくが大声で泣いているだろうと思ったのに、お稲荷さんのところまで来ても静かなので最悪の事態を覚悟した、という。一刻も早く様子を確かめたい。お稲荷さんに必死に願を掛けるとともに、いっそ足くらい折れても崖を飛び降りて……、と考えた。それで、大丈夫と分かった瞬間、ホッとすると同時にわれを忘れて手を上げてしまった、と、後で少し照れながら語った。

ぼくは、自分が悪いことをしたのだから泣いてはいけないと思って、ぐっとこらえていたのに――、と混ぜ返したものの、母に引っぱたかれたときに感じたのは、胸が空くような快い痛さだった。

あの時の母は真剣そのものだった。必死に子を思うがゆえの、なりふり構わぬ母のとっさの立ち居ふるまいは、どんなお説教より強くぼくの胸を揺さぶった。

                               

(東京都発信)

エッセイ一覧へ戻る

前に戻る 次へ進む

ビタミンYOUトップページへ