不良爺さんの大往生
濱田 優

いつもの葬儀とはなにか違った雰囲気が漂っていた。

さすがに二人の娘(といっても共に五十代だが)は、ときどきハンカチで目頭を押えていたものの、参列者の多くは、私と同じように、悲しみ深い告別の儀というよりは、多少羨望の思いを抱きながら、遠い異国に旅立つ人を見送りに来たときと似た気分だったに違いない。なにしろ、故人は類(たぐ)い稀なほど自在に生き、天寿を全うして他界したのだから。

「……昨年入院したときは病院で大酒を飲み、強制退院させられました。九十近い年寄が、規則違反で市民病院を追い出されたのは前代未聞だそうです」

喪主の長男が会葬お礼の挨拶で、こんな型破りのエピーソードを紹介した時は、場違いなのに然(さ)もありなんと式場に爆笑の渦が巻いた。

話題の主は、母の弟、治叔父さん。生まれ育ったのは鳥取の智頭(ちず)だが、若いうちに京都に出て、大津に移り住んだ。六人兄弟の五番目ながら、上は女ばかりなので総領息子である。

叔父が生まれたとき、子沢山の親は待望の男児が誕生したので、子どもは作り納めと「治」と名付けた。……なのに、数年後に弟の昇さんができ、親の愛はそちらに移ったそうな。

叔父は、赤ちゃんのとき子守りの不注意で大火傷をして両足の指を全部なくし、踵(かかと)だけで身体を支えている。それがどんなに辛いことか……、でも、彼はそれで落ち込むようなヤワな神経の持ち主ではなかった。

子どものころから相当な腕白で、ある時お寺の大屋根の天辺に登り、和尚さんから大目玉を食らった話は、街中の評判になったそうだ。高くて急勾配の瓦屋根の上を不自由な足でどうやって登ったのか、臆病な私なぞ想像しただけでも身がすくんでしまう。

私が憶えているのは、太平洋戦争の敗色が濃くなりはじめた昭和十九年の初め、私が幼稚園のときである。三十路の彼はまだ独身で、京都で鍼灸(しんきゅう)マッサージの仕事をしながら、祖母と末弟の昇さんと一緒に暮らしていた。そのとき、治叔父さんが天気の日でも長靴を履いて、肩を大きく揺らせながらとてつもなく速く歩いていたことと、昇さんが飛び抜けて背が高くてのんびり顔であったことが印象に残っている。

その昇さんに赤紙がきた。それで、急遽私は母に連れられて出征の見送りに行ったのだ。後から思うに、大人たちは“今生(こんじょう)の別れ”を覚悟したに違いない。母は、東京の親類縁者や近所の女性に頼んで刺した千人針を昇さんに手渡し、武運長久を祈った。……が、その願いもむなしく、彼は出征して程なく戦死してしまった。

治叔父さんは、戦後になってからやや晩い結婚をした。なかなかのやり手で、彼の鍼灸治療は人気があり、お得意先をたくさん抱えていた。大津に居を移してからは、自宅とは別に治療院を開設し、そこで長いことマイペースで仕事を続けていた。

十数年前、叔父から大号令が掛かり、一族総勢二十数人が智頭の菩提寺に集った。その前年、亡くなった叔母の納骨式を兼ねて先祖代々の墓にお参りをするという。その頃には、彼の兄弟は、私の母を含めて、みな先立ってしまい、彼が生き残った唯一の叔父になったのだ。

お寺での法事も然ることながら、会場を鳥取の名湯三朝(みささ)温泉の割烹旅館に移しての、精進落としの宴会は、さながら従兄弟会となり大いに盛り上がって楽しかった。幼いころ会ってから何十年振りに顔顔顔、名前を確認しては思い出話に花を咲かせた。

そのとき、叔父は喜寿を迎えていたが、元気そのもの、健啖家でお酒をがぶがぶ飲みながら、上機嫌で一族の集まりを仕切っていた。さすがは総領、普段は勝手気ままに過ごしているようでも、やる時はやるものだ。

宴会の皮切りの挨拶で、彼は自ら不自由な足を指差しながら、初めて胸中を吐露(とろ)した。
「若いときは恨んだこともあるけど、これのために戦争にも行かずに済み、今は福祉のお陰も受けて感謝しておりますわ。無念の若死にをした昇の分までまだまだ長生きせんと……」

彼の勇姿を見たのは、それが最後である。それから、寄る年波には勝てずあちこちが痛み出したと書かれた季節の便りを読んで心配したり、超人的な体力で病を克服しては、好きに暮らしているという家人の話を聞いて安心したりして今日にいたった。

長男芳光さんが、生涯問題児だった叔父の姿を髣髴(ほうふつ)とさせる、逸話の紹介を続ける。
「父は、最後の入院をする直前まで、ビールを朝一本、昼飯前に三本、そして夕食時には五本空けてから、焼酎か日本酒を飲みはじめます……」
 
彼は独立心が旺盛で、家人から心配されたり意見されたりするのを嫌い、奥さんに先立たれた後も、子どもたちと一緒に暮らさずに、治療院の方で独り暮らしを続けていた。行き倒れになったら困る、という子どもたちの説得にやっと応じて、芳光さんのところに移ったのは、ごく最近のことだそうだ。

この九月十七日の葬儀には、人気者の叔父に別れを告げようと各地から甥や姪たちが駆け参じ、期せずして従兄弟会の再現となった。

背負ったハンデをものともせず卒寿まで自由闊達に生き抜いた叔父のことを考えると、ちょっとした不運にめげてしまいそうになる私は、強烈な活を入れられる思いがする。

集まったみんなも同じ思いなのだろう、彼に勇気づけられた話をそれぞれに語り合う――。
死者が生者(しょうじゃ)を励ます不思議なお別れ会であった。                                

(東京都発信)

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