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一夜にして、住み馴れた赤坂の街が焼け失せた。
翌朝、逃げ込んだ避難場所から抜け出ると、辺り一面焼け野原、見も知らぬ別世界が目の前に広がっていた。
六十年前の昭和20年5月25日の夜、東京空襲最後の「山の手大空襲」でわが家は焼け出され、幸い家族5人無事に逃げ果せたものの、家も家財も全て無した。それからその日その日を生きるのに必死の焼け跡生活、小学二年のぼくも残骸の片付けや使い走りなどの手伝いをした。それは酷く辛い日々だったけれど、一方で環境の突然異変に気持昂ぶる思いも強かった。
手伝いの合間に、ぼくら子供たちは毎日腹を空かせながらも目を輝かせ、瓦礫の山が連なる焼け野原をわがもの顔に駆けめぐった。まるで眠っていた野性が蘇ったみたいに。といっても、多くの子供たちは未だ疎開中なので仲間は多くない。いつも一緒なのは仕出屋の純ちゃんと下駄屋の隆ちゃんぐらいだ。
遊び場の、足場の悪い瓦礫の山を自在に走るのはむずかしい。全身のバランスを保ちながらリズミカルに飛んでいく。運動神経が鈍いぼくは、はじめ足を引掛けたり滑らせたりして痛い思いをした。しかし、仲間に置いてきぼりを食うのが悔しいので、毎日彼らの後を懸命に追いかけているうちに、瓦礫の上をうまく歩くコツをつかんだ。
それは今でも身に付いている。自慢話になるが、昨年の秋エジプト旅行をしたときのこと、シナイ山の頂上でご来光を拝んで下山するのに、登山客で溢れている山道を避け、岩石がごろごろしているがれ場を一気に駆け下った。いつも裸足でその辺を走り回っている地元のベトウィン族にはとても敵わないけれど、存外調子よく降りられる。「都会育ちのお前が、何処でそんな技を覚えたんだ」と旅の相棒が驚いた。因みに彼は四国の山育ちである。
瓦礫の下に隠れている大小の地下穴も秘密めいていて、興味津々だ。以前は防空壕か、地下室か、それとも何処かに通じる地下道か。発見した穴に入ると、はじめは真っ暗だが、だんだん目が慣れて来る。中はやや湿った感じで、夏でもひんやりして気持いい。噂の隠匿物資が、隠されているかもしれない。ひょっとしたら奥に死人がいて呼び込まれたりして――。親には地下穴探検のことは黙っていた。そして、焼け跡で見つけた珍しい物を友達と一緒に穴蔵に隠し、ぼくらだけの秘密と誓い合った。
焼け落ちた建物の残骸の下には、実にさまざまなものが埋まっていた。ブリキの玩具とか陶器や金属の器具・道具類とか、形は面白いけれど何に使うのか分からないものも多い。好奇心に駆られてそれらを集めては、秘密の穴蔵に持ち込んだ。実際はガラクタばかりだったろう。でもそのときは、宝物を探す冒険物語の主人公になった気でT埋蔵品Uの発掘に夢中になった。
あるとき、有名な羊羹屋の工場跡で一筋の蟻の行列を見つけた。その行き先をたどって瓦礫を剥いでいくと、砂糖が炭化した黒い塊が出てきた。それは舐めても苦いばかりで食べられたものではない。奥の方を探ると、うれしいことにまだ一部は褐色のカラメル状のものも埋まっていた。これは苦味のなかに甘味も少し残っている。そのころは甘いものに飢(かつ)えていたので、夢中になってその塊をかじった。他のことはぼやけてもこの記憶は鮮明だ。
日差しを遮るものがない焼け跡で、ぼくらは真っ黒になった。喉が渇けば、剥き出しの鉛管に口をつけて水を飲む。ランニングシャツと半ズボンに下駄履きで走りまわる、ぼくらの手足は傷だらけで赤チン、ヨウチンの塗り跡が絶えない。なにしろ辺りには、ガラスの欠片、突き出た鉄心、刃物のような鉄板の端切れ、鋭角の角のあるコンクリート破片など、危険が一杯なのだから。
焼け跡で掘っ立て小屋やバラックで雑魚寝の生活を我慢できないと思ったことはないけれど、育ち盛りのぼくら子どもには食糧難は辛かった。母と長姉は遠くまで芋や豆の買出しに行くとともに、畑を作ってサツマイモやカボチャを育て、収穫期には毎日のように代用食で食べて飢えを凌いだ。それなのに、もう食べ過ぎたと今は敬遠したりして、サツマイモさん、カボチャさん本当にゴメンナサイ。
あれから60年、多くの都市が焦土と化し、築き上げたもの全てを失った日本は、苦しい戦後の混乱期を乗り越えて、不死鳥のように甦った。焼け跡の瓦礫の山から立ち上がった、ぼくらの親や先輩たちの汗と血の労苦を思い遣れば、当面の課題や将来の不安なんぞ今の人たちに克服できないわけがない。
当時のぼくには親たちの苦労の一端しか解らなかったけれど、自分の目に映った情景は子どもや孫たちに伝え残したい。
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