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リストラが咲かせた花
畠山 タヅ子

二十年前、これといった産業もなく眠っているような我が町に、待望の男子型企業で三百人収容するという比較的大きな会社が誘致されることになった。

年令は四十歳までとのこと。
私はその時ギリギリの年齢で該当する。
「男子型企業といっても、女子も採用する」という話もあったりして、町中“新しい会社”の話でもちきりだった。

私は以前小さな会社に勤めていたが、難しい人間関係に懲りてから、会社勤めには消極的だったので、会社誘致の話には感心なく過ごしていた。

ところが、美容院へ行った時、姉と同級の知人と会ってから気が変わった。
“新しい会社”のことが話題になり、その人が
「あなた行かない? 私も若ければ行きたいけど・・・」と言ったのだった。

四十才を目の前にした私には、もともと関係ないことと思っていたが、八才も年上の人が
「若ければ行きたい」と言っている前向きな生き方に心打たれ、新しい会社のことを身近に感じるようになった。

そのころ稲作を中心に葉たばこ、畜産と云う中堅農家だったが、どれも半ぱで正直我が家の経営内容は火の車だった。

このままの生活を続けていては家計が苦しい。
生活を変えなければやって行けない状態だった。
息子も高校に通っていて金もいる。

悩んだ末、面接を受けることにした。
「ダメでもともと」と考えていたので気楽だったが、
「臨時の雇用ですよ!」という試験官に
「かまいません」ときっぱり答えたのがよかったのか採用してくれた。
嬉しかった。

かげ日なたなく、一生懸命働いた。
しかし、ずっと農家だけでやってきた私は、職場という雰囲気に慣れるまで、しばらくかかった。

制限年齢ギリギリの入社だったので、もちろん年配の方である。
若い人たちは群れて楽しそうにしているが、年配組の私たちは“カヤの外”で肩身のせまい存在だった。

何よりも嫌だったのは名前を呼ばずに
「母さん」と呼ばれることだった。
呼ばれるたびにムカッとくるが、職場で波風立てて気まずくなるのが嫌で、他人とトラブルを起こさないよう気を使っていたが、そうするには大変な忍耐を要する時もあった。

こうした心の重い毎日であったが、それでも本社から出向している人たちが仕切っていた頃は厳しいながらも楽しかった。

私は臨時社員で採用されたのだったが、間もなく正社員にしてもらえた。

五年ほどして本社から来ていた人たちが引き揚げて、すべてのことが地元の者にゆだねられると、重石が除かれたように乱れ始めた。

そんな空気の中で、私の心は次第に虫ばまれて行った。
人と逢うのが怖くなり、上目使いで人を見るようになっていた。

何もやる気が起こらず、しきりと「死にたい!」と思っていた。
体も壊して長期欠勤もした。
入社して十七年目、会社は不況による人員整理があって、私はリストラされたが心底嬉しかった。

再び土に帰った私は、水を得た魚のようにみるみる元気になって、JAの指導を受けて野菜の栽培を始めた。

農業には定年もリストラもないが、自分が作った物には自分で責任をとらなければならない厳しさがある。

しかし、大地というキャンバスいっぱいに夢を描けるのが嬉しい。

「市場に出した野菜は、誰かが買って口にする」
と思えば「安全でおいしい物を作らねば・・・」という思いを強くする。

私が作った野菜を信じて買ってくださる消費者の方には、真心で応ねばなるまい。

私は自分が進む方向を見つけた今は
「生きたい! 長生きしたい!」と思うようになり
「死にたい」とばかり思っていた自分が信じられないくらいだ。

リストラによって咲いた、私の遅咲きの人生の花。
もっと美しく、そしてできるだけ長く咲かせていたい・・・と思っている。

「母なる大地」というが、自然は人間の心をやさしく、そして強くしてくれる力が秘められていることをしみじみ感じている。

私は今年は“年女”
恵まれた自然に育まれながら大きくはばたこう。

                         

(秋田県発信)

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