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新しい土地に移り住んで初めて、ある美容院を訪ねてみた。
美容師の名は、リンダ。
よもやま話から、彼女が絵を描いていることがわかった。
何を描いているのかを尋ねると、裸体画だという。
「裸体画は楽しいわよ。あなたもやってご覧なさい。
図書館に行けばデッサンのためのヌードの本があるから、それを見て描くのよ」
鏡の前で髪を切ってもらいながら、私はリンダの言葉に耳を傾けた。
二十一年間、私は米国のカリフォルニア州に住んでいた。
いつか本格的に絵の勉強をしたいと思いながらも、毎日の仕事と二人の子供の世話で、なかなか思うように時間がとれなかった。
夫の転勤で、ノース・キャロライナ州に引っ越してからは、仕事もしなくなったので、絵を描くことができると期待していたが、鬱状態に陥り、それどころではなくなった。
鬱になると、どうなるか。
まるで重い病気を患っているかのように、体がだるくて仕方がない。
子どもたちを学校に連れて行かなければならないので、一応起き上がるものの、洗顔もしなければ、服も着替えない。
朝、着替えなくていいように、夜はパジャマなどは身につけず、普通の服のまま横になる。
学校に子どもたちを送り届けた後は、家に帰ってベッドに直行、子どもたちの帰宅時間まで眠るという毎日であった。
どうにかこの鬱状態から抜け出したいと思い、幾つかのことを試してみると、子どもたちを学校に送ったあと、家に帰らず、コーヒーショップで本を読んだり、絵を描いたりするのがいいことがわかった。
近くのコーヒーショップに毎日行くようになったある日、画家のエリザベスに出会う。
彼女の推薦で、『右脳で描く』という本を購入し、その本の練習課題をひととおりやってみた。
鬱はぶり返すこともあったが、次第に軽くなって行き、引越しから一年半が経ってみると、かなり落ち着いたようである。
リンダに会ったのは、そんな時であった。
裸体画を描くという発想が、私にはまったくなかった。
ヌードを観るということ事態に、何かためらいがある。
しかし、裸体画は美術専攻者の通らねばならぬ道。これは大切なことだ。
次の日、書店に足を運んだ。
デッサンのためのヌード写真集を一冊手に取って、ぱらぱらと頁をめくってみると、一糸も身に纏っていない男性の全身像があり、顔がほてり、あわてて次の頁をめくる。
迷ったのち、その一冊を買って帰った。
その夜、一人の男性を画用紙に描いてみた。
短距離走のスタートの姿勢で、こちらを向いている。
写真のモデルに選ばれた人らしく、肩や腕、胸や脚の筋肉が隆々としている。
全体のバランスを考え、筋肉や皮膚に注目し、黙々と鉛筆を動かす。
描き終わってみて驚いた。
もうヌードがヌードではなくなっていた。
どの頁を観ても、まるでりんごを見ているような感覚で、眺めることができるのである。
この一枚のデッサンが、私を変えたといってよい。
描くことが、喜びとなったからである。
これまでデッサンの練習と称し、画集を見ながら真似をして描いてみたり、花を描いたりしていたが、喜びが湧き上がるということはなかった。
ところが、裸体画は本当に楽しいのである。
プロポーションと角度、バランスにさえ気をつければ、短時間で一体を描き上げることができる。短時間で達成感が味わえるということが、私には大切であった。
しかも、写真のモデルは誰もが美しい肢体をしているので、仕上がりがそれなりに良く見え、自分の描くレベルが上がったかのような錯覚さえ感じられる。
洗濯をし、掃除をし、買い物をし、料理を作り、後片付けをし、子どもたちの宿題を見、夜に時間があれば絵を描こうという意識が、一変した。
とにかく、描く。合間に家事をする。
描けば描くほど、もっと描きたくなる。一枚描きあげる度に「やった」という満足感を味わう。
絵が上手だったわけでもない私が、絵を描きたいと思うようになったのは、夫の両親へのプレゼントとして、写真を見ながら絵本を作ったのがきっかけである。
その時の楽しかったこと。いつか、プロのイラストレーターになりたいなあ、そんなことを夢見るようになった。あれから10年、友達の中には孫が産まれた人もいる。
そんな年齢になってしまったのに、夢への第一歩は、なかなか踏み出せないでいた。
2003年の1月12日、初めてヌードを1枚描いて以来、3枚が4枚、4枚が8枚、8枚が10枚と、毎日描く枚数が増えている。
一週間で描いた画用紙は61枚に達した。
つい先日まで、たった一枚の鉛筆画を仕上げるのに、何日もかかっていたのが信じられない程の筆の運び具合である。
毎日この調子で一年間描き続けてみれば、何を見ても、目にするものはすべて、ある程度描けるようになるのではないか、そんな想いさえ心の中に芽生えている。
無気力で寝てばかりだった鬱の年月が信じられないほどに、私は今、裸体画のデッサンに熱中している。
描くのが楽しくてたまらないという、不思議なエネルギーに包まれながら・・・
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