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「ごめん、帰れない。だけどこれだけは伝えて・・・」
仕事中に私がそうメールを打ち始めたのは、父の手術を明日に控えた夜だった。
『脳内血管奇形』そう宣告されたのは10年前の春。
5月の温かい休日、倒れた父は今日まで10年間その病と闘ってきた。
いやそれまでも、知らず知らずに戦っていたのだ。なぜならそれは先天性、いわゆる生まれつきの病だったからだ。
10年前「発作はいつ起こるかわかりません」
もう1週間、意識の戻らない父の枕元でそうきっぱりと言いきった医師。
それをくい止めるには手術をするしかないという。しかし私たち家族は「手術」という言葉に諸手を挙げて賛成し、挑戦することができなかった。
後遺症・障害・生活不安、そして何より父の死。考えられる障害は指折り数える必要もないほど無数だった。当時の医療では、超えるべき壁が私たち家族には大きすぎたのだ。
「来るべき時が来てからでも遅くないんじゃないかな」
悩める母に高校生だった姉が、いささかお説教めいた口調でぽつりと呟いた言葉。
その言葉に母は静かにうなずいた。
そしてその日まで私たちが父を守る、そう決断した瞬間だった。
そして10年が過ぎ、その日がやってきた。
携帯電話が鳴った。
「お父さん決めたって」
そう切り出すと、母は父に受話器を渡した。母のその慎重な口調に、私は何のことだか察しはついた。が、そ知らぬふりをして聞いた。
「何を?そんな改まって」
「10年前できなかった手術、やってみる」父の声は、思いのほか軽やかだった。
私は少し拍子抜けしたように
「うん」
一言だけ。それ以上何も言えなかった。
10年前、家族を路頭に迷わせた病。どれだけの不安と迷いが私たちの脳裏を巡り、憎んでも憎みきれない病があることを知った。
「毎晩床に就くと、もう朝が来ないんじゃないかと思う」
弱音とも本根ともとれる父のそんな言葉が、家族を奮い立たせた。誰よりも言葉にできない不安を抱いて過ごしてきたのは、まぎれもなく父そのものだったのだ。
病との決別。そしてそれに立ち向かう勇気。
私は今までで一番強く誇らしい父の声を聞いた。
「私たちがついてるよ。安心して!」
そう言って私は電話を切った。
今日、手術の日を迎えた。
私の手帳には、故郷行きのチケットが挟まれていた。が、それが使われることはなかった。
「ごめん、帰れないかも」
そう一言電話する勇気さえ出ない。仕事なんて言いわけしたくない・・・。
それを家族と一緒に祝うことができないのか。
父の勇気を家族全員で見守ってやることができないのか・・・。
結局私は握った携帯電話を置いてしまった。できない。電話なんて。
がんばろうとしている父や母や姉に「ごめん」なんて言えないよ。
と、携帯電話が鳴った。姉からだ。お説教かもしれない。恐る恐る電話に出る。間違いなく姉の声だった。
「あなたが帰って来られないの、わかってたよ」
いつもより優しいその姉の声に私は拍子抜けして携帯電話を落としそうになった。
「無理しなくていいよ。気持ちは伝わってるから。自分のこともがんばってほしいからって、お父さん・・・」
そこまで言うと一つ大きなため息を一つついた。受話器の向こうで、姉が何かをこらえているのが伺えた。私はうなずくだけでただ涙が溢れた。
「ありがとう・・・」ごめん、のはずが感謝の言葉に変わっていた。
「もう切るね」私の心を察したのか手短に電話を切る姉。
「私たちがついてるよ。安心して!」
言えなかった言葉をメールに綴った。
手術の成功が知らされたのは、次の日の夕方だった。
「伝えたよ、メールの内容。だからお父さんがんばれたよ」
と、姉からの電話。そう一言いいながらやっぱりちょっと私にお説教をした。
「あんたはいつもそうなんだから!」
それは我が家の元気の源なのかもしれない。
家族の誰かが一人かけてもいけない。不幸でもいけない。悲しんでもいけない。
寒くならないうちに帰ろう。
そして元気になった父に「ただいま」って元気に言おう。
それから、少しだけ姉のお説教も素直に聞くことにしよう。
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